市場通りの今昔

このコラムは、ヤハタ薬局の経営者で薬剤師であった松永幸子さんが、亡くなる数年前に書いていただいたものです。松永さんは、商店街の活動にも熱心にご協力いただきました。日本の高度成長期の滝野川市場通り商店街を知れるコラムです。

 昭和44年8月7日の講談社発行の「週刊現代」に、表紙に呼び物として「安売りの町、安売り店全国総まくり」というのが若い鷲尾文子の写真の顔と並んでいる。
 その中で「谷端は正にペルシャの市場」という見出しが目を引きつける。そして、その記事には日本商業立地研究所・藤島俊氏の分析で「私の選ぶ安売りの街は北区滝野川にある谷端市場ですね」と説明はさらに続く。
 この商店街は国鉄赤羽線、板橋駅から歩いて約五分。飯田百貨店というスーパーを中心に小さな商店が密集している。
 生鮮食料店、衣料品を中心にコーヒー、清涼飲料水など普通の三割から四割以上も安く買えると評判である。毎日、人の出盛る夕方になると、さらに露店商までたくさん出てきて、街全体が蜂の巣をつついたような騒ぎになる。近く志村、巣鴨、大塚の方からも来る客も多いし、まるでペルシャの市場と言った光景であると市場通りを紹介している。
 私はペルシャの市場を実際に見たことはないが、当時の飯田市場は粗末な建物で、雨降りの日には店の中を傘をさして買い物をしなければならない程だった。多くのお客様が道路上を右往左往して入用な買い物をする有り様であった。また、当時はお客と店員の間にはそれぞれのやりとりが交わされ、それが買い物の楽しみの一つであったらしい。歳末などには六米道路を向かいに店舗にルッキるのも容易ではない程の人でであった。
 それほど安いということの魅力は大きかった。市場通りは「一里四方はお客様だ」と云っていたように両手には持ちきれないほどの買い物をぶら下げて帰るお客で商店街はあふれていた。
 街全体、安売りを誇りお客の多いのは自慢の種子でもあった。
 市場通り坂上の、現在は駐車場になっている場所は、元は市場通りから谷端小学校に向かって狭い路地があり、それを挟んで住宅が十七、八軒向い合っていた。その通りの入り口だけを開けて、そこにも露店商の店が数軒立ち並んだ。
 七味唐辛子の店、男女用の靴下屋、ゴム紐を長く垂らして売るゴム紐屋が出店していた。それらの出店もお得意様を持っていて、結構商売は成り立っていた様子であった。
 どこの店舗も出店も買い物を通してお客との交流が広がっていた。
 私が昔、「タイ」に行った時、露店が多く集まっている通りに出合った。出店の多くは道の傍らに芭蕉の葉を敷いて、その上に商品を簡単に並べていた。焼きバナナを売っている店があったが何かの都合で店をしまう速さは特別であった。バナナを抱きかかえて芭蕉の葉を足で蹴散らして行ってしまった。観光客は隣ので店を次々と覗いていく。通りは活気に満ちている。
 市場通りもいつしか常連の出店が姿を消していった。
 最近は花屋、文具屋、塩干魚屋が時々、トラックいっぱいの荷物を並べる程度である。
 飯田百貨店も新築・増築を重ね、今は昔の面影はなく板橋駅ホームから展望できるほどの立派な建物に変わり、店内収容人員は何百倍にもなった。今では買い物客が道路に溢れる光景は少なくなったが、それでも初めての人や新しく引っ越してきた人たちは相変わらずの人の波と活気ある商売に一様に驚きの目を瞠っている。
 しかし、市場通りだけが旧態依然と構えているわけにはいかない。近くには高層ビルやマンションもでき、近隣にはスーパーも進出し東京全体の消費構造が様変わりしている。
 市場通りが安売りの街、活気のある街としてのイメージを街の人々の胸の奥から消え去ることのないように、市場通りの発展を願っています。

昭和46年10月 松永さんの文章にもあるように、この頃までの市場通りはお客様の人出が多く、街には活気があふれていた。 出店の靴下屋さん、高く商品を吊るす小倉洋品店さん、左には島村鶏肉屋さん、内田お菓子屋さんと中央に進むほど身動きできませんでした。白の割烹着姿が目に着くのも、昔日の懐かしい一コマです。
昭和46年12月14日 ベビーセンター新装開店
昭和47年8月29日 靴の店オオシマ新装開店 ※現在のビルは平成3年3月に完成。